aporo2の日記

キリストに従って光の中を歩むしあわせ

頑張ってクリスチャンになるのですか?

 

はじめに

 

一救いは恵みと信仰そして聖書による一

 

恵みとは本来、良くされる理由がないにも関わらず神が良くしてくださることで、一般の辞書でいうところの恵みと聖書でいう恵みの意味は異なります。

 

この恵みは神の愛であり、この恵みがなければ、使徒たちも救われませんでした。

 

人類すべての罪に対す赦しの代価は神の恵みにより、キリストがご自分の命で支払いを終えてくださり完了したのです。

 

これを「永遠の贖い」といいます。

 

また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

(ヘブライ9:12)

 

救いに関しては人間は一ミリも何かを行うことはできません。完全な救いを主イエスさまが成就してくださったからです。

 

以下にパウロが受けた救いについて、何を信じればよいのかをご一緒に確認致しましょう。

 

また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 

(コリント第一15:2~5)

 

ここに、上記を信じる人間の信仰が必要なのです。信仰を保つならとパウロは念を押しています。行いではありません。そしてこの救いを可能にしたのが、神の「恵み」なのです。

 

 

パウロの華々しい活躍についてパウロ自身が以下のように証しています。

 

神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

 

(コリント第一15:10)

 

繰り返しになりますが「恵み」とは本来、悪くされる理由は無数にあるにもかかわらず、神が良くしてくださることを「恵み」といいます。

 

 

この「恵み」が分からないために、クリスチャンになれないと思っている人が何と多いことでしょう。

 

むずかしいことはすべて、キリスト・イエスが十字架上で完了してくださったため、人間はただ信じるだけで救われるのです。

 

どのように救われるのでしょうか?

 

福音を信じた者の命が神によって、神の内に移され、神からは聖霊がその人のところに来るのです。

 

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

 

( コロサイ3:3)

 

聖霊については、パウロがガラテヤ人への手紙の中で、「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」

 

(ガラテヤ3:2)

 

と言っている通りです。

 

これが福音です。

 

たとえ、今罪にまみれていても、あなたは信じるだけで救われる。悔い改めは、ただ見方を変えるだけでいいのです。だれでも、最初は罪にまみれていたのですから。

 

御霊があなたをキリストの似姿へと変えていってくださいます。これを聖化といいます。

 

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 

(コリント第二3:18)

 

ですから、人の目にどのように見えても、父なる神と主イエス・キリストを信じ、聖書のみことばを信じて、信仰を保っていってください。「義人は信仰によって生きる」からです。

 

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 

(ローマ1:17)

 

では、わたしたちが強調してきた「行い」とはなんでしょうか?聖書から見てみましょう。

 

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

(エペソ2:10)

 

上記でいう「行い」とは福音を信じて救われた人が良い行いをするように神があらかじめ備えてくださったものです。愛も行いも御霊を受けた人、つまり信仰によって救われた人が神の恵みよって行うものです。

 

 

おわりに

 

1 罪についてです。

 

わたしたちは光のなかにいるので、罪を見つけることができませんが、もし罪の意識があるなら、一度悔い改めて清められたなら、罪をやめるようにと聖書はすすめています。

 

わたしたちは罪なるものと戦うことがないので、罪から離れよとか、罪をやめるようにとパウロが勧めている状態にあてはまりません。

 

ただ、こうです。もし、戦うのなら、わたしたちは戦いません。では、だれが戦うのでしょう。

 

答えは神が戦うのです。愛するにせよ、何にせよ、わたしたちは神に関することを自力でおこなうことができません。

 

つまり、主にこうしてほしい、ああしてほしいではなく、わたしたちが何もしないなら、聖霊が全力を発揮するのです。

 

これが、御霊に導かれる生き方です。

 

世に勝利するとは、この生き方を体得した者のことです。

 

これを体験しているクリスチャンは正直少ないのです。

 

次に

 

2 みことばに従うことについてです。

 

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

 

(ヘブル10:25)

 

上記のように、たとえ聖書に書かれていることであっても、無理して行おうとしないことです。

 

体調を普段から整えていても具合の悪い時もあるでしょう。

 

こういう時は、静養しゆっくり休んでください。

 

カルト宗教は人に無理をさせ、人を病気にさせます。

 

間違っても行けるようにと祈って行くことがないようにしてください。

 

無理をしないことです・・・。

 

さて、今日は

 

神の恵みによって導かれ、ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。

 

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが今も、明日もとこしえまでもあなたと共にありますように。

 

アーメン

 

blueeyes一からの引用

 

 

教会へは行った方がいいでしょうか、それとも行かなくてもいいでしょうか

 

このことについて聖書はなんと教えているでしょうか?

 

へブル10章25節に以下のように書かれています。

 

 

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

 

 

地域教会に通うことは、牧師、信徒、自らの病気などのさまざまな問題があることは事実です。

 

現代がラオデキヤの教会時代であることも知っています。

 

しかし、神はただおひとりであり、神がおられる地域教会もある筈です。あなたが認めなくてもです。

 

ですから、神にとらえられている人は、いずれかの地域教会を探してそこへ通うことになるでしょう。

 

理由ですか?その人が神にとらえられているからです。横との関係ではないのです。上との関係が最も重要です。横とは信者。上とは神です。

 

牧師が聖書をまっすぐに伝えているなら、そこに集まっている信徒はまともな人が多い筈です。

 

しばらくの間、やむをえず一人で聖書を学ぶこともあるでしょう。ねっと礼拝もあるでしょう。

 

病気で教会に行けない人もいるでしょう。

 

さまざまな問題があることは分かりました。

 

 

すべては神のみこころのままにです。

 

vetania一からの引用

 

 

福音はすべて信じる者に救いを得させる神の力

 

主よ、あなたはわたしたちの病を癒しわたしたちを罪から解き放ってくださいました

 

わたしたちはアダムにあって罪のもとに売られ、あらゆる困難と苦痛の中にとらえられていました

 

しかし、あなたはわたしたちをキリストにあって罪から解き放ち、わたしたちの病をいやしてくださいました

 

これが、福音であり、主ご自身がわたしたちの上に成就しました

 

 

・・・・・・

 

 

わたしは主を愛します

 

あなたはわたしを愛していると言ってくださいました

 

まるでわたしを必要とするかのように

 

主は明けの明星

 

わたしの希望

 

 

あなたはわたしの手を取って

 

わたしたちは一緒に出かけて行きました

 

あなたはわたしの上に手をおき

 

わたしを愛していると言ってくださいました

 

昔、海だったエメラルドの草原で

 

 

わたしプリマベーラはあなたの「真実の愛」を信じます

 

わたしたちは横たわり

 

一緒に食事をしました

 

あなたはわたしを見つめて

 

わたしを愛していると再び言ってくださいました

 

あなたがわたしを必要とするかのように

 

 

わたしは小さなこどものように

 

あなたの腕のなかにいました

 

 

空には美しい虹が架かっている

 

わたしはそれを見た

 

やさしい光のなかで

 

 

主よ、あなたはこう言っておられるのです

 

聖書に書かれている通り

 

「わたしはすべての被造物の願いをかなえる」と

 

あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます ( 詩篇146:16)

 

・・・・・・・・・

 

プリマベーラ、おいで

 

はい

 

わたしたちは互いに互いを必要とする存在ね

 

そうでしょ?

 

そうだね

 

ちょうどキリストと教会のようにね・・・

 

 

僕たちは世界の創造の前から神の予知に従って主に選ばれていた

 

これが聖書に書かれている信者たちが救いを受けた理由

 

これは人間の理解の到底及ばないこと

 

神は救いの御手を伸ばし、僕たちだけでなくすべての人たちに呼びかけておられる

 

神に立ち帰れと

 

もし、かれらが滅びるとしたら、この呼びかけを無視する者たちだ

 

 

で、ペテロが手紙に書いたようにかれらはそうなるように運命づけられていたと言える

 

それでも、パウロがいうように幾人かでも救われますように

 

 

そう、救われるように願っているわ

 

何から救われるなんていわないでね

 

ねこが人間にいじめられて半殺しにあって苦しんでいるのを見つけて

 

こころある人たちがその猫を助ける動画を見て人間にもやさしいところがあるといつも思っているの

 

でも、そのねこのために人間が自分の命を犠牲にする人はみたことがない

 

イエスさまの十字架での死と復活はそこまでしないと、人間を罪から救出することができなかったの

 

こう説明しても神の霊が働かないと聞いた人のこころにストンと落ちることはないの

 

人間は、最初はキリストのようになれなくてもいいの

 

それは、あとからそのようになるから

 

あなたが罪にまみれていてもいいのよ

 

どうしてって?

 

救いは神の恵みと信仰そして聖書によるの

 

行いを変えるのではないのよ

 

見方を変えるの

 

最初はただ信じるだけでいいの

 

そう、都合のいい話ね

 

分かっているわ

 

でも、それを恵みというの

 

人間には本来良くしてくれる理由なんてないから

 

人はこころで信じて口でイエスは自分の主だと告白するならその人の命は

 

キリストの中にバプダイズされるのよ

 

つまり移されるってこと

 

これを新しい創造とパウロは言った

 

分かった?

 

アダムから生まれた人類は生まれながらの罪人

 

イエスから神の恵みと信仰によって新しく生まれた人はその人の命が神の中に移されたの

 

このとき、聖霊もその人のところに来てキリストの似姿へと神が日々変えていってくださるの

 

 

だから、自分で愛を実践しようとか行いを変えようとか行いで救いを得ようとしないでね

 

むずかしいこと言ってごめんなさい

 

真理とはイエスさま、みことばそして聖霊

 

 

救いは「恵みのみ信仰のみ聖書のみ」とルターは言っていたけれど

 

そのとおりよ

 

わたしとあの人は真理を知るようにあえてパウロがいうように愚かになったの

 

わたしプリマベーラが最後にまとめたわ

 

長くなっちゃってごめんなさい

 

・・・・・

 

あーあ、サガンが背中をまるめているわ

 

かわいいね、サガン

 

かわいいでしょ

 

余計なことだけど

 

なあに?

 

君は世界一きれいだよ

 

 

 

あなたは嘘をつかない

 

だってあなたは真実の愛だから・・・

 

今、君はサガンを腕に抱いて

 

サファイア色の天空からの

 

さわやかな神の息吹の中で

 

僕に向かって微笑んでいる

 

僕たちが歩いた後ろにはたくさんの美しい花が咲く

 

 

わたしとあなたは神の翼(愛)に包まれて

 

狭められたキリストの命の道を一緒に歩いている

 

 

僕たちが近い将来、キリストと巨万の聖徒たちと共にもどって来るとき

 

この世界は終わる

 

そして

 

僕たちは栄光のからだを受け、永遠の新天新地が始まり、神とキリストと聖徒たちと共に永遠に生きる

 

rutu一からの引用

 

 

わたしたちはキリストのなかにバプタイズされた

 

新しく創造されることの意味について

 

パウロは聖書で、だれでもキリストの内にいるなら、その人は新しく生まれた者ですと説明していますが

 

この意味は単なる比喩ではなく霊的リアルの状態を意味しています

 

信じられないかもしれませんが

 

神がわたしたちの命をキリストのなかへと移されたことを意味しているのです

 

・・・・・・

 

rutu一からの引用

 

 

神の愛の勝利

 

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

 

ローマ8:38~39

 

 

あなたは神の恵みを体験した?

 

一わたしたちは体験したわ一

 

 

 

わたしたちの仲間はイエスさまにしがみつくことを勧める信仰を伝えてきたけれど

 

わたしたちはその手を離したの

 

神さまがわたしたちをしっかりととらえてくださっていることがわかったから

 

それが恵みよ

 

手を話しても大丈夫

 

信仰って、あなたがしっかりイエスさまを握りしめることではないの

 

神さまがわたしたちをしっかりとらえてくださっていることを信じることよ

 

そして、ただ信じているだけじゃなくそれをいつも感じているの

 

それから

 

悔い改めってわたしたちの仲間が行いを変えることだと伝えてきたけれど

 

見方を変えるだけでいいのよ

 

いい、わたしは今日、重要なお話をしているのよ

 

いつもだけれど・・・

 

エメラルドの草原

 

サファイア色の天空

 

 

神の息吹

 

風の音が聞こえることなど

 

それらはみな恵みの表現よ

 

そこは、わたしたちがいつもいるところなの

 

そこを

 

今回、冒頭に目に見えるように掲載しました

 

百聞は一見にしかずって言うでしょ

 

・・・・・

 

イエスさまの十字架は輝く栄光

 

その十字架を神さまが喜ばれたって知っていた?

 

いい、神さまはイエスの十字架を悲しまれたのではないの

 

喜ばれたのよ

 

神さまが喜ばれた

 

その理由がわかるなら

 

あなたも自由にされるわ

 

多くの真面目な信徒たちだけが日々聖霊に満たされることを願っているの

 

あなたもその一人ならわたしたちと一緒に

 

信仰深いふりを捨てて

 

イエスさまの輝く栄光の十字架に感謝し歓喜しましょ

 

 

わたしとあの人はいつも光であるキリストのなかにいる

 

rutu一からの引用